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岡山地方裁判所 昭和35年(わ)200号 判決 1963年4月30日

被告人 藤原節夫

明三九・一一・一〇生 衆議院議員

主文

被告人を禁錮八月に処する。

訴訟費用中、別紙記載の各証人に支結した分は全部被告人の負担とする。

本件公訴事実中、被告人が鶴田簔輔に対し三〇万円を供与して立候補届出前に選挙運動をしたとの点(起訴状記載の公訴事実第三の分)および大橋博一、河田鋭三郎の両名に対し三〇〇万円を供与して立候補届出前に選挙運動をしたとの点(右公訴事実第五の分)については、被告人はいずれも無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三五年一一月二〇日に施行された衆議院議員総選挙に際し、岡山県第二区から立候補して当選した者であり、これより先、同年五、六月ごろから来たるべき衆議院議員総選挙には、自由民主党の公認その他諸般の事情が許す限り立候補することを内心予定し、徐徐にこれを具体化してその方策を進め、おそくとも同年八月末ごろには立候補を決意していたものであるが、右選挙に当選を得る目的で、自己のため投票の取りまとめ方を依頼するとともに、その報酬および選挙資金等として

第一同年九月七日、同県笠岡市笠岡の大江忠治方で

一  選挙運動者小川啓治郎に対し、現金五万円を

二  同内田金栄に対し、現金五万円を

第二同月二八日、同県倉敷市阿知町の奈良万旅館で、選挙運動者近藤新一郎に対し、現金三〇万円を

第三同年一〇月一七日、同県玉野市築港の寿旅館で、選挙運動者三原大蔵に対し、現金五万円を

それぞれ供与し、いずれも立候補の届出前に選挙運動をしたものである。

(証拠)(略)

(法令の適用)

被告人の判示各所為中、金銭の供与の点はそれぞれ公職選挙法二二一条一項一号に、事前運動の点はそれぞれ同法二三九条一号、一二九条に各該当するところ、右供与と事前運動とは、それぞれ一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により、いずれも重い供与の罪の刑に従い処断すべく、所定刑中各禁錮刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、犯情の最も重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内において被告人を禁錮八月に処する。なお、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文を適用して、主文二項のとおりこれを被告人に負担させることとする。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、本件各公訴事実中、被告人が立候補届出前に選挙運動をしたものであるとの事実は、公職選挙法二三九条一号、一二九条の罪に該当するので、その公訴時効の期間は同法二五三条一項本文により、六箇月になるところ、本件の公訴が提起された昭和三六年五月一六日までには、すでに右公訴時効が完成しているから、刑事訴訟法三三七条四号により、右事実については免訴の言渡をなすべきであると、主張する。

しかし、いわゆる想像上の数罪の場合においては、本来実質上数罪ではあるが、刑法五四条一項前段の規定によつて科刑上一罪として取扱われるものであるから、その公訴時効は、その最も重い罪の刑により、その完成を認めるべきで、想像上の数罪を構成する各犯罪行為の刑により、各別にその完成を認めるべきではないと解するのが相当である。それ故に、本件においてはその最も重い公職選挙法二二一条一項一号の罪の刑により、その完成を認めるべきものであるところ、その公訴時効は同法二五三条三項本文により、一年であるから、本件公訴の提起のあつた昭和三六年五月一六日当時は、判示各犯罪事実全体について、その公訴時効は未だ完成しないものというべく、したがつて、右弁護人の主張は理由がない。

(無罪の説明)

一、鶴田蓑輔に対する供与について

起訴状記載の公訴事実第三は、「被告人は、昭和三五年一一月二〇日に施行された衆議院議員総選挙に際し、岡山県第二区から立候補して当選した者であるが、当選を得る目的で、自己のため投票ならびに投票取りまとめ等の選挙運動を依頼し、その買収資金および報酬等として、同年一〇月初めごろ前記大江忠治方で、選挙運動者鶴田蓑輔に対し、現金三〇万円を供与して立候補届出前に選挙運動をしたものである。」というのである。

証拠を検討するに、右の点に関する主なる証拠は、鶴田蓑輔の検察官に対する昭和三六年一月一二日付、同月一四日付、同月二〇日付各供述調書であつて、右供述調書の内容がそのまま証拠として是認されるとすると、右公訴事実は一応その証明があるように思われるところであるから、まず右供述調書の任意性および信用性について検討を加える。

弁護人は、右鶴田の供述は、同人が七二才の高令で本件検挙を受け、警察において身柄を拘禁されているうち脳貧血で倒れ、拘禁により生命の危険に堪えかねて為した虚偽自白で、その任意性および信用性はないと主張する。

(一)  まずその任意性について考えるに、第三回および第四回公判調書中の証人鶴田蓑輔、第二七回公判調書中の証人河島徹、同井上妃、第二九回公判調書中の証人東郷実乗、同遠藤喜代治、同易教一、同山本弥一、第三二回公判調書中の証人波山正の各供述部分を総合すれば、鶴田は昭和三五年一二月二八日倉敷署に出頭して逮捕、ついで勾留され、翌三六年一月四日岡山東署に移監後、同月二〇日に保釈となつたものであるが、その間七二歳の老令にして高血圧慢性肝炎の症状があり、食欲不振で強度の不眠症に悩まされていたこと、同月六日夜留置場内において軽い脳貧血で倒れたこと、治療を受けていた河島医師から言うべきことは言つて早く取調をすませるよう慰められたりしたこと、同月八日から再度取調を受けたがその翌日ごろから当初否認していた武田、高木(逮捕事実)、宗田への供与事実を認め、また被告人からの前記三〇万円の受供与事実をも自白するにいたつたことが認められるのであるが、検察官の面前における供述の任意性を疑うに足りる資料は存在しない。しかし、右供述の信用性を評価するについては、右のような状況のもとになされた自白であることは、相当考慮せざるを得ない。

(二)  ついで右供述の信用性について考えるに、右供述調書中、金銭授受の状況につき、具体的に触れているのは一月一二日付供述調書だけであるが、その供述内容中、鶴田が被告人と面接し金銭の授受がなされた際の状況についての供述は、同供述調書中の鶴田から武田、宗田、高木に対する各金銭供与の状況についての供述と対比すると、一見やや簡単に過ぎ具体性を欠く憾みがある。

まず受供与の日時について、一〇月初めごろの午後(昼間)のことであり、鶴田は、大江方の店の間でみんなと雑談している時に、被告人から呼ばれて離れの間へ行つたという旨の供述であるが、本件の一切の証拠を検討しても、右供述を除いては、そのころ被告人と鶴田とが大江方で面接したとの事実を認めるにたりる証拠はない。

のみならず、第四五回公判調書中の証人酒井定雄、同数田愛策、同原田恒博、同大山国男、第四六回公判調書中の証人磯崎荒太、同藤井貞雄、同福光千家江の各供述部分、証人西杉幸治、同高木年夫、同小川啓治郎、同藤森嘉祐、同黒田照太の当公判廷における各供述および鶴田蓑輔に対する公職選挙法違反被告事件の記録中、第二六回公判調書中の証人安藤仁一の供述部分を総合すれば、一〇月初めごろの午後(昼間)に被告人が大江方へ行き、鶴田と会う機会があつたと推測することは、かなりその根拠が薄弱であるといわなければならない。なるほど、検察官が指摘するように、被告人が一〇月初めごろ笠岡市方面にいたことは被告人も当公判廷において供述しているところであり、第四回公判調書中の証人鶴田蓑輔の供述部分には、鶴田はそのころ大江方へ行つたことがある旨の供述もあるけれども、このような通常存在し得る一般的状況をもつてしては、右両名が大江方で面接したとの事実についてこれを裏付けるにたりる密接な状況とは認められない。

次に授受されたとする金の種類について、鶴田は千円札で受取つたとの供述であるが、すでに認定した判示第一ないし第三の各事実においては、被告人から各受供与者に渡された金の種類がいずれも一万円札であつたことと対比し、また被告人は当公判廷において五万円や一〇万円の金を千円札で持ち歩いたことはないと供述しており、このことは通常の経験に照らしても一応首肯せられるところであるので、右の点について、鶴田の供述は特異な印象を受け、供述の信用性について疑問を生ずるものである。

(三)  右一月一二日付供述調書には、鶴田は、被告人からすでに一〇月初めごろより二、三回にわたり事務長になつてもらいたいとの交渉を受けていたが、ほかにやり手がないという状況であるので、自分がこれを引受ける以外にないと考え、同月二八日ごろ大江方で被告人に対し二、三の条件、すなわち自分もすでに七三歳で若い時分と同様な活動もできないので、常に選挙事務所につきつきりになつて采配をふるうというやり方はできない、いわば勝手登城といつた立場で、気の向いた時に選挙事務所に出入りして内部の波乱や紛争の調停役をつとめるとか、みんなの相談に応じるとか、各地を回つて選挙の情勢判断をやるとか、そういうことだけで行きたい、また選挙の裏金を取扱つて運動員や、選挙人を饗応したり買収したりすることは、連座制の規定ができている選挙法の立前として候補者の方に影響のあることであるし、そのようなことをすること自体非常に危険なことであるので、そういうことはしない、ということで、出納責任者兼最高責任者に就任することを承諾した旨(記録四、五五三丁)の供述があり、また右供述調書等から鶴田は一〇月初めごろには被告人のため金のかかるような尽力をしていないことがうかがわれるので、これらを総合すると、当時鶴田が被告人からいわゆる買収費等として三〇万円を受取つたと断定するのは、その当時の鶴田の心境や立場からして稍不自然のようにも考えられる。

(四)  鶴田から武田に対する供与事実の存否は、鶴田が被告人から三〇万円の供与を受けたことを自白するにいたつた動機ともなつている点で、極めて重要である。そうして、武田は、証人として第一六回公判において、鶴田からの受供与事実を認めており、右事実を含む武田に対する公職選挙法違反被告事件の有罪判決は、すでに確定しているところである。

しかし、前記鶴田に対する公職選挙法違反被告事件の記録中、裁判所の証人藤原睦子に対する尋問調書によれば、武田は保釈後の昭和三五年一二月二三、四日ごろわざわざ上京して東京駅で被告人の二女藤原睦子に会い、同女に対し、自分は取調を受けて二〇万円位を白状した、その金の出所のうち一〇万円については鶴田に責任を持つてもらうことにした、本来ならば総括主宰者である鶴田が、現地で指揮するのが当たり前であるのに、逃げてしまつたため事件が大きくなつてしまつている、鶴田さえ出て来れば事件が解決するのに逃げているのは卑怯だ、一〇万円を鶴田にかぶせてもそれは当然である、その旨鶴田に伝えてくれ、鶴田が天城の家に来て手土産としてハトロン紙の封筒に入れた一〇万円を渡してくれたと取調官に言つたので、それに口を合わせてくれ、刑事が二、三人来ていて、鶴田が来たことを知つているから都合がいいのだなどと話した旨の供述があり、鶴田の検察官に対する昭和三六年一月一七日付供述調書によれば、鶴田は昭和三五年一二月二七日プリンス・ホテルで、被告人から右の旨を伝え聞いている旨の供述がある。そうして、第四〇回公判調書中の証人田口寿太の供述部分によれば、武田は同証人に対し被告人の妻藤原ふじ子を不起訴にしたのは自分の力であるとか、鶴田からの受供与事実は鶴田が出納責任者になる前のことであるから被告人の当選には影響がないなどと言つた旨の供述があり、第三者に対しても事実でない旨を言つているのではないかとうかがえるのである。被告人の当公判廷における供述によれば、武田は被告人に対しても、同趣旨のことや逃げている鶴田を出すために嘘を言つた、被告人の妻からの受供与事実も嘘であるが、被告人本人に行かせないために、本人に一番近い妻の名を出したのだなどと言つていた旨があり、これらの供述がその侭全部信用できないにしても、全然虚構のことと断ずる資料もないのでこれらによると、右武田証人の供述には、何らかの事情によつて、事実と相違するものがあつて、その侭全部は措信できない節があるのではないかとも疑われ、これをもつて、直ちに本件公訴事実の証明に直結する動かし難い証拠とするには、さらに検討を要するものと考えられる。

仮に、鶴田から武田に対する供与事実が真実であるとしても、前記鶴田の一月一二日付、同月一四日付各供述調書と、前記武田証人の供述部分との間には、内容において無視できない重要な相違がある。すなわち、鶴田は武田に対し千円札で渡したと強く主張している(記録四、五七五丁、なお第二九回公判調書中の証人遠藤喜代治、同易教一の各供述部分参照)のに対し、武田は受取つたのは一万円札に間違いないと供述しているのである。

したがつて、右武田証人の供述をもつてしても、鶴田が被告人から三〇万円の供与を受けたという自白の真実性をただちに推認することはできない。

(五)  鶴田が、被告人から供与を受けたとする金のうちから自宅へ送る生活費、相互掛金、呉服屋への掛金、下宿代等を支払つているとの点について、第四回公判調書中の証人鶴田蓑輔、前記鶴田に対する公職選挙法違反被告事件の記録中、第一四回公判調書中の証人鶴田常夫、同第二五回公判調書中の証人片岡寛治の各供述部分によれば、鶴田が当時右の諸費用を支払うについて他人の援助を受けなければならない程困窮していたという事情は認められないので、右のような鶴田にとつて通常存在し得る一般的状況をもつて、鶴田の検察官に対する供述の信用性を増強させることはできない。

以上の諸点を考慮するときは、前記鶴田の検察官に対する供述調書の任意性は一応認められるのであるが、被告人から大江方で三〇万円の供与を受けたという供述部分は、その信用性はかなり乏しいものというべく、到底これだけでは、前記公訴事実を認めるに十分なものとはなし難く、本件全証拠を検討しても、他に右事実を肯認するにたりる証拠は存在しない。

二、大橋博一、河田鋭三郎の両名に対する供与について

起訴状記載の公訴事実第五は、「被告人は、前記選挙に際し、当選を得る目的で、自己のため投票ならびに投票取りまとめ等の選挙運動を依頼し、その買収資金および報酬等として、昭和三五年一〇月二六日ごろ前記大江忠治方で二女藤原睦子を介して、選挙運動者大橋博一、同河田鋭三郎の両名に対し、現金三〇〇万円を供与して立候補届出前に選挙運動をしたものである。」というのである。

証拠を検討するに、右の点に関する主なる証拠は、河田鋭三郎、大橋博一、藤原睦子の検察官に対する各供述調書であつて、これらを総合すると、右公訴事実は一応その証明があるように思われるところであるから、まずこれら証拠の任意性および信用性について順次検討を加えることとする。

(一)  河田鋭三郎の検察官に対する供述調書について

同調書は昭和三六年一月一三日付、同月一八日付、同月二三日付、同年四月一五日付のものであつて、一月一三日付供述調書において右三〇〇万円の授受について最初の供述をなし、その後右授受の日時、状況等について、相当の変更があるけれども、藤原睦子から三〇〇万円を受取つたという点は変らないままの供述になつている。

ところで、第一八回および第一九回公判調書中の証人河田鋭三郎の各供述部分によれば、河田は、右事実を全面的に否定し、右は全く虚偽の自白があるとし、右虚偽自白をするに至つた事情について次のように供述しておる。

私は、昭和三五年一二月二〇日笠岡署に出頭して三原大蔵に対する一〇万円供与の件で逮捕され、同月二六日ごろ岡山東署へ移り、翌三六年一月二四日釈放された。かねて肝臓、胃腸、神経痛等の疾患のため病弱の身であつたが、留置中も一日置きに医師の治療を受けていた。その間、笠岡署では奥山、山田両警部補、寺尾巡査部長、岡山東署では右山田、寺尾と松本巡査部長、ついで検察庁では波山検事らの取調を受けたものである。私が笠岡署へ岸本、近成両弁護士に付添われて出頭した際、山田または奥山警部補は、「弁護士は動きさえすれば金を取る。自分一人で来ればただで来られるのに、弁護士と来れば旅費も弁護料も取られる。」というようなことを言い、岡山東署においても、山田警部補(か)は、「弁護士は、結局金を使うばかりで大した助けにならない。我々の方が、本当にあんたが話してくれるのなら、役に立つのだ。」と二、三回言つた。山田警部補らは、「三〇〇万円位は渡していると大橋らが言つている。だから三〇〇万円は受取つたのでないか。藤原の身内からそういうようなことがあつたのでないか。大橋もそういうようなことを言つているぞ。」などと金の出所を追求し、私が自分で金を調達したと言つてもどうしても取上げてくれなかつた。山田警部補は、藤原はなつていない。一四、五回も当選した星島が一番に挨拶に来たのに、来なかつたのは藤原だけだ。こんな奴に同情がもてるか。」、「徹底的に藤原をやるには三つの理由がある。それは藤原がどこまでも高姿勢であること、朝日談話云云。」、「藤原は自民党の事務局長をやつている時に二、三〇〇〇万円の金をごまかしている。これ一つでも藤原を起訴できるのだ。」、「自由民主という新聞の部数をごまかし、金を取つている。」、「岡山の山陽旅館と倉敷の奈良万、奈良万は近藤新一郎が市会議員を集めてやつたのだ。これだけでもちやんと起訴できるのだが、君が本当のことをわしに言うのならそれは全部ご破算にして、決して藤原の身に傷がつくようにはしない。藤原はいろいろ前にも問題があるけれども、絶対にわしの力で罪にはせん。四月の議会明け(か)にこつそり世間に内緒で参考人として取調べる位なことだから、金の出所を言え。」などと言い、その例として、「逢沢派の選挙違反のとき、候補者から娘婿の小寺に一五〇万円渡されたことがわかつたが、小寺は、取調の際、みんな言うが決して候補者に傷をつけないでくれと言つて、わしにすべてを打明けた。わしも小寺が泣きながらに言うので、その事情を汲んで県の上司へそのことをよく話し、候補者にも傷がつかず、何らことなくすんだ。わしはそれだけの力を持つている。」、「川上郡の県議選で違反があつたが、その時も呉服屋の柳井が涙ながらに言つたので、柳井は町会議員であつたが、公民権の停止もしないでちやんとしてやつた。」などと何回か言つていた。寺尾巡査部長は、「口のはたに関所や交番がないと思つて出放題を言うな」と言うのが口ぐせであつたが、一月七日ごろかに早口で、「河田さん」「河田さん」とくり返して返事をしろと言い、「わしの目をにらめ」などと言うこともあつた。同月九日のことであるが、山田警部補は、「今日は県の署長会議がある。それでどうしても言つてもらわないと困る。もし言わなければ署長会議で、また藤原の選挙違反の捜査関係を基本的に打直さないといけない。五時までに言わないともう駄目だ。岡山の弁護団が君に金の出所を言わそうと言つているが、弁護団に言われて君が言うのであれば、藤原はもう助けない。逢沢の時のように泣きの涙でわしに頼むなら、絶対にきいてやる。わしも県警から言われて君を調べて、それで君が白状しないのでは不名誉だから、藤原から出たのに決まつているのだから、そういうようなことを言え。それで藤原は助かるし、わしも県に対して顔が立つ。必ず県へ帰つて上司に伝え、検察庁とも何して逢沢の時や、川上郡のように決して本人に傷がつかないようにしてやる。」と言い、寺尾巡査部長も、「山田さんは今言うように実際に信用おける人だから、必ずこの人が言つたことが通るから、騙されたと思つて話にのれ。」と言い、昼ごろ波山検事が来て、「河田さん、言いなさい。あんたが言つても藤原さんの何になることは決してしないのだから、とにかお山田警部補によく話しなさい。長いことかかると拘置所へ送らなければならない。」などと言つた。私はいろいろ考え、佐々木弁護士にも面接させてもらつて自分の構想を話し、同弁護士から、およそで作つたようなことを言うのは面白くない、言われたけれども、自分としてはどうでもいい、向こうが藤原を助けてやる、騙されたと思つて言えというのだから、こちらもその話にのつてやれという気持になり、山田警部補の言葉を固く信じて、逢沢派の話にヒントを得、藤原を助けるために身内の人を出せばいいと考え、結局その日は非公式ということで、虚偽の自白をしたものである。したがつて、山田警部補は調書をとつたが、その日は署名捺印をさせず、一、二日遅れてした。波山検事の取調を受けた一月一三日には、山田警部補から、警察で言つたとおりを言わないといけない、と言われた。波山検事も、藤原には事務局長時代に問題があるというようなことを言つていた。山田警部補は、「検察庁は藤原派の選挙にゆるい。うちが言いさえすれば藤原に土がつかない。」ということも言つた。私は、一月九日に波山検事が警察へ来て早く言えというような話をしたので、山田警部補の話が通じていると思つていた。同月一四日には、山田警部補は、「河田、喜びなさい。あんたの意思が通つたぞ。わしが帰つて上司に話をしたら、そら河田の意思を汲んでやろうということになつた。」、「検察庁へも話をして一六日県警の某と検察庁の次席が東京へ行くのだ。これでもう助かるから安心しろ。などと言い、釈放後も県警へ行つた時、山田警部補から、さらに「河田さん、男として約束しているのだから、わしを信じてくれよ。」と言われた。私が山田警部補らに騙されたことを知つたのは、第一は釈放後藤原睦子が逮捕されたことを知つた時であり、第二は藤原が起訴された時で、この時初めてうまく二人に芝居を打たれたことがわかつた。それまでは必ず助かると自信をもつていた。

これに対し、第三一回公判調書中の証人山田重男、第三二回公判調書中の証人波山正、第三三回公判調書中の証人寺尾賢の各供述部分には、右のような誘導、欺罔等の事実は全くなかつた旨の各供述がある。

しかし、この点に関し、右山田証人の供述部分には、「今回の藤原陣営の違反摘発は警察のデツチあげであると藤原が言つたという新聞の談話記事について、沢山の人に迷惑をかけて違反がでているのだが、なかなか先生は高姿勢だと言つたことはある」旨(記録三、一二六丁)、「藤原の奥さんを逮捕したから、君が出て来たのだろうという意味のことは言つたかも知れない」旨(同三、一二八丁)、「大橋の供述によつて、三〇〇万円という金を河田が持つていたということは初めから分かつていた」旨(同三、一三〇丁以下)、「逢沢派の違反のとき、選挙資金を、架空会社をつくりそこから捻出するという方法でやつた、小寺がなかなか金の出所を言わなかたことを話したことはある」旨(同三、一三五丁以下)、「川上郡の県議選の経験談を話したことはある。しかし、柳井が山林を売却した金を預金して買収資金を出している、そういう例もあるから、君が自分の責任において調達したというのなら、柳井のようにその点をはつきりすればいいと言つたにすぎない」旨(同三、一三七丁)、「川上郡の違反で候補者がことなきを得たということは言つた」旨(同三、一四四丁)、「藤原が山陽旅館や奈良万旅館で金銭の授受をした事実があるという意味のことは言つた。名前や金額も言つていると思う」旨(同三、一四四丁)、「真偽のほどは分からないが、藤原が党の金を使つて選挙をしたという噂もあるらしいという意味のことは言つた」旨(同三、一四六丁以下)、「一月九日ごろか波山検事が見えたことはある」旨(同三、一五〇丁)、「一月九日、署長会議で本部長から選挙違反の収拾について訓示しなければならないから、話ができるのならしなさい。今日は調書をとるひまがないからと言つた」旨(同三、一五二丁)、「調書は二、三日後にとつた」旨(同三、一五六丁)、波山証人の供述部分には、「河田が警察官の取調を受けている間、数回行つたことがあるが、同人は自分が波山検事であることを知つていた」旨(同三、三六一丁以下)、寺尾証人の供述部分には、「川上郡の郡ぐるみの話は出ているが、金の出所が山を売つた金であることを明らかにした例として山田警部補が話していた」旨(同三、五一七丁)の各供述があり、また第一九回公判調書中の証人大橋博一の供述部分には、「一月一四日に山田警部補から三〇〇万円の件で取調を受けた際、午後二時から検察庁と打合わせがあるが、藤原を一ついいようにしてあげないといけないので、僕も急いでいるから手数をかけるなと何辺も言われた」旨(同一、九〇三丁)、裁判所の証人藤原睦子に対する尋問調書には、「山田警部補から取調を受けた際、必ず金バツヂをはぎとつてやる、刺し違えても落としてやる、そのため父をどうしても逮捕してやる、買収費を方方へ渡しているのは分かつている、事務局長の地位を利用して公金横領をしている、それを全部明るみに出してやる、などと言われた」旨(同二、〇〇七丁以下)、「警察で取調を受けている時、波山検事が来て、弁護士を親代わりと思つているだろうが、ここへ入つたからには自分達を親代わりと思つて早く言つておしまいなさい、と言われた」旨(同二、〇一五丁)、「山田警部補から、弁護士は商売だから頼りにならない、自分達を頼りにしなければいけない、などと言われた」旨(同二、〇三三丁)、「山田警部補から、対河田の問題を言えば鶴田の約束、罪をにぎりつぶしてやると言、われた」旨(同二、〇四三丁)の各供述がある。

以上によれば、河田が山田警部補から誘導、欺罔されたものであると、最も強く主張してやまない逢沢派や川上郡の選挙違反の話や、その他かなり誤解を招き易い言葉が、その意味は別としても、とにかく同警部補から出ていることおよび波山検事が警察における河田の取調中、数回顔を出していることが明らかであり、また右河田、大橋および藤原睦子各証人の供述が、その重要な点において一致しているので、これらの事情に河田証人の供述態度等を合わせ考えると、前記河田の供述を、ただちにその全部について信用するわけにはいかないとしても、捜査官においてこれに近い言動があり、警察官の候補者は必ず助けてやるとの言を信じた結果、不正な利益誘導に基く供述と推測する余地が多分にあり、かつ検察官に対する供述も、その影響下になされたものと認められるので、その供述の任意性に、疑いがあると考えざるを得ない。

さらに河田の各供述の信用性について検討する。

まず受供与の日時について、一月一三日付供述調書には、

「一〇月二五日の午前中大江から電話がかかり、昼から来てくれとのことであつたので、午後出かけると返事をして、昼食後、神島から笠岡に渡り大江方に行つた。」旨(記録四、九三〇丁)の供述があるが、後にいたり、同月一八日付供述調書には、「金を受取つた日時は一〇月二五日と思つていたのですが、私の記憶違いで私の手から近藤に五〇万円手渡してやつた日の一〇月二六日の出来事であつたかも知れません。」旨(同四、九三九丁)の供述となり、そのまま四月一五日付供述調書にも、「確かその日の朝方頃であつたと思いますが、大江忠治から私に電話がかかつて来て、どうしてもこちらへ来て貰わなくてはならん用事があるから来てくれ、と言われて神島から船に乗つて笠岡に参り、大江方に行つて受取るようになつたのでありまして、その金を受取つたその日に大江君から電話がかかつて来たという記憶があるのであります。私が神島を何時の船に乗つたかということについてこれまでの取調においては、私方で昼食を食べた後午後の船で渡つたように申し上げましたし、又大江君も昼から来てくれと私に申したように記憶していましたので、そのとおり申し上げたのでありますが、本当のところ午前の船に乗つたか午後の船に乗つたかということについても明確な記憶がないのであります。」旨(同四、九五七丁)、「右の出来事は最初私は昨年一〇月二五日ごろのことだと思つていましたが、近藤が私から五〇万円受取つた日が一〇月二六日に間違いないとすれば、二五日頃というのは私の記憶違いで近藤の申すとおり一〇月二六日の出来事であつたと思います。」旨(同四、九五八丁)の供述になつている。

ところで、近藤が河田から五〇万円を受取つた日時が一〇月二六日昼前ごろであることは、近藤新一郎の検察官に対する昭和三五年一二月七日付供述調書(記録四、六三五丁以下)および押収してある富士銀行倉敷支店両替票写の謄本(昭和三七年押六四号の三一)により、一応認められるところであるが、右河田の各供述調書中、日時は、前記のように、二五日が二六日と、午後の船に乗つたというのが午前の船かも知れない、というふうに変つている。

次に金銭授受の際の状況について、一月一三日付供述調書には、「大橋が受取つてくれと言つたので、藤原睦子と二人で奥の一〇畳間に入り、三〇〇万円を受取つた。」旨(記録四、九三一丁)の供述があつて、藤原睦子と二人だけで面接したことになつているのに、後にいたり、同月一八日付供述調書には、「私の記憶では前回申したとおり一対一で睦子さんから三〇〇万円受取つたのであつて、そばには誰もいなかつたと思つているのですが、或いはそれは私の記憶違いで大橋もそのそばにいたかも知れず、同人が立ち会つたというような気もしますので、同人がそのように申しているのなら大橋のいうとおりだと思います。」旨(同四、九三九丁)の供述になり、そのまま同月二三日付供述調書には、その席に大橋君がいたかどうかという点についても、その後いろいろ考えてみたが、「その席にいなかつたともいえないし、いたともいい切れず、実際のところいたかということはどうしても私には記憶が呼び起せないのであります。然し大橋がその場にいたというのなら、それが本当であると思います。」旨(同四、九五二丁)、四月一五日付供述調書にも、「藤原睦子さんから現金三〇〇万円受取つた時の事情についてはこれまで詳しく申したとおりでありまして、その席に大橋君が居たかどうかという点についてその後も考えて見ましたが、その席にいたという明確な記憶が甦つて参りません。大橋君がいたというのならそのとおり間違いないと思いますが、私にはそこまでの記憶が呼び起せないのであります。」旨(同四、九五七丁)の供述になつている。

ところで、大橋の昭和三六年一月一八日付供述調書には、「一〇月二六日のことでありました。睦子さんはその日一〇時五六分笠岡着の急行安芸で来られましたが、その時大江が手配して、藤原が東京から持つて来ておられた自動車を笠岡駅まで廻してお嬢さんをお迎えに行つたのであります。大江方の連絡所は、表の部屋と中の間とその奥の八畳か一〇畳の間の三間を使わせて貰つていたので、その日も私は表の部屋でお嬢さんがやつて来るのを待ちかまえておりました。河田は午前九時ごろ大江方に来たので同人等といろいろ選挙の話をしたのであります。急行安芸号でやつて来たお嬢さんは、大江方の台所に行つて一応荷物等置いて落着きました。私は金を藤原からことづかつて来たものと思つたので、河田とお嬢さん二人を一番奥の一〇畳の間に呼び入れてそこで金を受取りました。睦子さんは何から出したか記憶はないけれども、ハトロン紙の封筒に入つたものを取出して、私と河田に対し、これをことづかつて来ました、という簡単な言葉で差出したので、私は候補者が一〇月二三日に帰られる時金を作つて届けさせると申しておられたので、その金を睦子さんにことづけて来たものと考え、いわれるとおり、一旦その金を私が受取り、すぐ右から左へと河田に君これを預つておいてくれと申して手渡してやりました。私も選挙の裏金ですからそれだけ遠慮して、河田が中味を取出していくら入つているか調べておりましたが、その間裏の方を向いてわざと見ないように気をつけていたのであります。その中に三〇〇万円入つていたということは、後で河田から聞いてそれと知つたのであります。」旨(記録四、九一二丁以下)の供述がある。

したがつて、河田の一月一八日付以後の各供述調書中、前記各供述は、検察官が、河田の一月一三日付供述調書中の供述と、右大橋の供述調書中の供述等との異なる点について、河田に対し確かめた結果の供述であることは明らかであるが、大江方へ行つたという日時が、さしたる理由が認められないのに簡単に変り、かつ、大橋は、金銭授受の際に立会い、藤原睦子から一旦金を自分が受取つてすぐ右から左へと河田に手渡したというのに、河田は大橋がいたともいなかつたとも言い切れず、いたかどうかはつきりしない旨を答えており、相当印象的に記憶に残つているだらうと思われる金銭授受の日時、態様についての、重要な事項に関する供述としては、余りにもあいまいである。

右のように、河田の右各供述調書は、犯行の日時、金銭授受の際の状況等極めて重要な点において、二転し、あいまい不確実な供述で、検察官の意のままに動揺しているかのごとき特異の感を抱かしめ、信用性に乏しいといわざるを得ない。

また河田が一〇月二六日近藤に対し渡した五〇万円の出所について、検察官は河田が同日藤原睦子から受取つた三〇〇万円の中から渡したものであると主張しているが、昭和三六年一月九日付供述調書には、河田は、当時自分の手許にあつた一〇〇万円を合服の上衣の内ポケツトに入れて自宅を出て大江方へ行き、約一時間も待つてからやつて来た近藤に対し、洋服の内ポケツトから一万円札ばかりで五〇枚を勘定して取り出し手渡した旨(記録四、九二二丁以下)の供述があり、この点は、その後の一月一三日付供述調書にも、「前回、私は大江から電話がかかつて来て裏金を用意して大江方に出て来たと申しましたが、その点はそのとおり間違いありません。」旨(同四、九三三丁)、計三〇〇万円の札束のうち洋服の内ポケツトの両側に一つ宛とチヨツキの内ポケツトに一束をしまつて帰宅し神棚の奥の方に隠しておいた旨(同四、九三一丁)の各供述があるのであるから、三〇〇万円の中から近藤に対し五〇万円を渡した旨(同四、九三三丁)の供述と同一の供述調書でありながら、矛盾するわけであるが、右供述調書の供述自体から、むしろ前者、すなわち藤原睦子から金を受取らなくても、河田が自宅から用意して持つて出たという一〇〇万円の中から近藤に対し五〇万円を渡したとの推測も可能なわけである。しかも、河田鋭三郎に対する公職選挙法違反被告事件の記録中第一二回公判調書中の被告人河田の供述部分および証人山本文子、同山川元市の当公判廷における各供述によれば、河田は、一〇月二二、三日ごろ山本文子から、同月二六ないし二八日ごろ山川元市から、各二〇万円を借受け、また退職金等二〇万円を持つていたことがうかがわれるのであるから、河田が金を用意して大江方へ行つたという事実は、一応肯定し得られるのであつて、このことを否定すべき証拠はない。

その他、仮に、河田が藤原睦子から前記日時に三〇〇万円を受取つたとすると、他の証拠によつて認められるところの、河田が鶴田蓑輔から選挙中に受取つた一〇〇万円および自己の持金を含めて他から調達した金約九〇万円、以上合計約四九〇万円と、その使途との間に相当説明しがたい差額が生ずるのである。

以上の点を合わせ考えると、河田の検察官に対する供述は、その供述内容においても信用性に乏しく、断罪の用に供し得ないものと思われる。

(二)  大橋博一の検察官に対する供述調書について

まず右供述調書の任意性および特信性について考えるに、第一九回公判調書中の証人大橋博一の供述部分には、大橋は昭和三五年一一月二六日供応の件で逮捕され、一二月三〇日ごろ保釈となり、翌三六年一月一四日山田警部補に、同月一八日波山検事に三〇〇万円の件について取調を受けた、当時の自分は勾留のため心身ともに疲れており、また四方八方から非難攻撃され、最悪の状態であつたが、河田に口を合わせて同人を早く助け出さなければならないという気持で一杯であり、血圧も高く再逮捕されることを恐れ、山田警部補から手数をかけるなと何辺も言われ、藤原睦子が金を持つて来て河田に渡した場所にいたろうなどと誘導されるまま虚偽の自白をしたものである、波山検事に対しても右睦子が父からことづかつて来たと言つて金を出したという点を訂正したほか、山田警部補に言つたのとほぼ同じようなことを言つた旨の供述がある。

これに対し、第三五回公判調書中の証人山田重男の供述部分には、右誘導の事実は全くなかつた旨の供述があるので、右大橋の誘導についての供述をただちに信用することはできず、大橋の検察官に対する供述が任意のものであることは疑いなく、その任意性は肯定し得られるのである。しかし、その信用性については、前記河田の各供述調書について、すでに説明したように、金銭授受についての最重要部分であり、かつ記憶違いをする筈もないと考えられる状況等の供述において、河田と大橋との供述の間に到底無視できない一致しない点があつて、その信用性は極めて薄弱であると断ぜざるを得ない。

(三)  藤原睦子の検察官に対する供述調書について

第三一回公判調書中の証人山田重男、第三二回公判調書中の証人波山正、第三三回公判調書中の証人山崎宥、同寺尾賢第三五回公判調書中の証人松本年夫、第三六回公判調書中の証人河島徹の各供述部分を総合すれば、藤原睦子の検察官に対する昭和三六年二月三日付供述調書が作成されるにいたるまでの経緯およびその後の事情として、次の事実が認められる。すなわち、

藤原睦子は三〇〇万円の件で昭和三六年一月一七日から同月一九日まで県警に任意出頭して取調を受け、同月二三日岡山東署で逮捕され、山田警部補、寺尾、松本両巡査部長の取調(一月二五日を除き毎日取調べている。)を受けていたが、逮捕事実については終始供述を拒否する態度を持していたところ、二月三日は波山検事の取調を受ける予定であつたが、朝岡山東署の階段の上り口でふらついたので河島医師の診察を受け、疲労とすい眠不足であるから少し休ませるようにとの指示があり、休憩後右睦子が大丈夫であると言うので、検察庁へ連れて行かれ、波山検事の取調を受けた、右取調は同日午後一時四〇分から午後八時二五分まで行なわれ、途中夕食のため三〇分位休憩したが、供述調書の作成は午後七時五〇分からとりかかつた。ところが、午後八時ごろ藤原睦子は目まいを訴えたので、供述調書は九割位取り終つたころで、同女は二〇分位机によりかかるように体をふせて休憩した後、署名指印を終り、ここに右藤原睦子の供述調書が作成されたが、同女は立ち上がつて部屋を出る時また目まいを訴えドアに寄りかかるようにした。そこで、山崎事務官が右睦子を抱えるようにして玄関まで連れて行き、車で岡山東署へ送り、同日夜河島医師の診察を受けた。その後藤原睦子は翌々二月五日も河島医師の診察を受けたが、六日にいたり心因反応(第三五回公判調書中の証人松田清の供述部分によれば、その原因について、直接的には精神的疲労であり、間接的には身体の疲労、性格等であつて、精神的に異常な緊張状態が高度に達し何日間か積み上げられてきたと考えられ、それが耐えられなくなり発作状態を起こしたもの)を呈してシヨツク症状におちいつた。

ところで、捜査官の取調の模様について、裁判所の証人藤原睦子に対する尋問調書には、前記引用した各供述のほか、「毎日朝八時か九時ごろから五時か六時ごろまで取調を受けた」旨(記録二、〇〇三丁)、「山田警部補から、河田が警察で書いた手記を見せられ、河田が信じて開いた道に従え、というようなことを言われた」旨(同二、〇〇三丁以下)、「一月三〇日ごろから取調官が三人になり、夜九時ごろまで取調を受けた」旨(同二、〇一〇丁)、「山田警部補から、奥村ただおが交通事故で死んだのは結果的に父が殺したようなものだ、と言われた」旨(同二、〇三五丁)、「二月三日の取調の際、波山検事は、主任検事としてもう父を起訴することに決めている、今さらあなたが頑張つてみたところでどういうことはないのだからあきらめて全部言いなさい、長びけば長びく程捜査陣が強硬になるだけ不利だから、などと言われた」旨(同二、〇一八丁)の各供述があるところ、これに対し、右山田、寺尾、松本らは各証人として、藤原睦子のいうような脅迫、誘導等の事実は全くなかつたと供述するのである。

しかし、右山田証人の供述部分には、「河田はこういう心境になつているということで、同人の上申書を見せたことがある」旨(記録三、一八八丁)、「自民党の金のことは話題に出した」旨(同三、一九二丁)、「鶴田が約束罪で起訴になれば、藤原は連座制で失格するといつた話をしたかも知れない」旨(同三、一九六丁)、寺尾証人の供述部分には、「自供した方が藤原派の選挙違反の各被疑者に対する検事の取調が有利になるという趣旨のことを言つた」旨(同三、四七二丁)、「笠岡の奥村ただおが交通事故で死んだのは藤原の選挙で死んだようなものだという話が出たことはある」旨(同三、四九七丁)、松本証人の供述部分には、「藤原が自民党の事務局長時代に党の金を使い込んでいるというような話が出たかも知れない」旨(同三、七一八丁)、波山証人の供述部分には、「三〇〇万円の事実以外に多数の金銭が供与されているので、見通しとしては起訴になると言つた」旨(同三、三〇二丁)、「本人の足取りは分かつている。あなたがこの事件についてどういう役割をはたしているかは分かつていると言つたと思う」旨(同三、三四一丁)、「警察の取調室で藤原睦子の姿を二ないし四回位見た」旨(同三、三三二丁)の各供述が散見せられる。

以上のような諸般の事情を総合すると、任意出頭して以来逮捕、勾留後も終始黙祕権を行使していた藤原睦子に対し、捜査官が自白を得んとの熱意に燃え、連日警察で相当時間にわたり執拗な取調を行ない、同女をして心身ともに疲労させ、その状態に引き続いて検察官の取調がなされたものと認められ、藤原睦子が証人として供述した程度に不当なものはなかつたとしても、そこには同女が未婚の女性で、逮捕勾留などの体験なく、その生い立ち、教養関係等に照らして、かなり行き過ぎたものがあつたのではないかと考えざるを得ない。この意味で藤原睦子の検察官に対する供述は、その任意性に疑いがあり、信用性を認める余地もないと見るのが相当である。

したがつて、前記藤原睦子の供述調書はその証拠処力を認めることはできない。

以上のとおり、河田鋭三郎、大橋博一、藤原睦子の検察官に対する各供述調書は、いずれも任意性を欠くか、または信用性がないものであるから、これを証拠として採用することはできず、これらの証拠を措いて他に前記公訴事実を肯認するにたりる証拠は存在しない。

三、そうすると、起訴状記載第三、第五の公訴事実についてはいずれも犯罪の証明が十分でないので、刑事訴訟法三三六条に則り、右事実については被告人に対し無罪の言渡をするものとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 竹島義郎 川上泉 安達敬)

(別紙略)

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